【古代中国】老子の言葉【思想】其の四

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016~020まで記録していきます。生活の知恵、座右の銘、哲学としてご参考ください。

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016 道と一体となれば生涯危ういことはなくなる

心をまったく空虚にし、静かな(無心な)気持ちよさをよく守る。

すると、万物は生まれ育っていくものの、私にはそれがもとに(根源に)返ってくるのが見えてくる。

万物は生まれて盛んに広がるが、いずれはその根元に帰ってくるものだ。

根元に帰ってくることを「静」といい、これを「命に復る」(未来の運命、根元に帰る)という。

命に帰ることを「常」(恒常の不変の真理)といい、その常を知ることを「明」という。

この常を知らないでいると、いい加減な行動をして、凶を招くことになる。

常を知っていれば、どんなことでも包容できる。

すべてを包容できれば、公平となる。公平となれば王者である。

天と同じとなる。天と同じであれば、「道」と一体となる。

「道」と一体となれば、それは永久である。

そうなれば、生涯、危ういことはなくなる。

017 上の者は誠実であり、余計な口出しはしない

最高によい君主(為政者)というのは、余計な政治や干渉はしないことから、人々はそういう君主がいることをしっているだけである。

その次によい君主は、人々が親しみ褒めたたえる人である。

その次の君主は、人々が恐れてしまう人だ。

その次の君主は、人々が侮る人である。

君主に誠実さが足りないと、人々は信頼しない。

君主が悠然としていて、言葉も慎重にして、余計なことを口出さなければ、仕事はうまくいく。

人々は、誰もが、自分がやるべくしてやったと言うのである。

018 大いなる「道」と一体化すれば仁義などの徳はいらない

大いなる「道」が廃れて仁義などの徳が主張され始めて、大いなる偽ごとがまかり通り出した。

家族の和がなくなって、親への孝行とか親の慈悲などが徳として協調されるようになった。

国家がひどく乱れてしまい、そこから忠告などが現れるようになった。

019 さかしらな知恵、才能など必要ない

英知、さかしらな才能などを決して使わず、知恵分別を去てるならば、無駄な争いなど何もなくなり人々の利益は百倍にもなる。

仁や義などという徳を絶って、強制しなければ人々の孝行や慈悲ももとに戻るであろう。

技巧や便利さを追求することをなくしたら、盗賊はいなくなるだろう。

この三つのことは、まだ説明が足りないので、さらに加えてみる。

すなわち外面は素地のままで、内面はあら木のようにし、私心を減らし、欲を少なくしていくのだ。

020 道に従うと融通のきかない田舎者のように見える

学ぶことを絶てば(さかしらな知識、知恵を尊ぶ考えをまったくなくせば)、憂いはなくなる。

「はい」と「ああ」と答えるのに、本質的な差がどれだけあるのだろうか。

善と悪の差がどれだけあるのだろうか。

人々の慎むところは、こちらも慎まなくてはいけないが、それはきりがなく、どこまでも慎んだらよいのだろうか、果てしのないことだ。

誰もみんながうきうきとして、歓迎の大ごちそうを楽しんでいるようで、また春の日に高台に登って景色を見ているようだ。

私だけ一人、ひっそりと何も動かないで、まるでまだ笑うこともできない赤ん坊のようである。

また、くたびれ果てて帰る所のない者のようだ。

誰もみんなが、ゆとりあるのに、私だけが何もかも失ってしまったかのようである。

私は愚か者の心のようだ。

何もわからない。世間の人々は輝いているのに、私は一人暗く沈んでいる。

世間の人々は利口で物事がよくわかっているが、私は一人悶々としている。

まるで海のようにたゆまなく、ひゅうひゅうと止まない風のようである。

誰もみんながそれぞれに有能なのに、私だけ融通のきかない田舎者のようだ。

ただ、私だけ人と異なり、母なる根本の「道」に養われることを大切にしているのだ。 


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