【古代中国】老子の言葉【思想】其の十四

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066~070まで記録していきます。生活の知恵、座右の銘、哲学としてご参考ください。

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066 人の上に立つ人間はへりくだることができる

大河や海がいく百もの川や谷の水を集めてその王になっている理由は、よくへりくだっているからであるであり、そのためいく百もの川や谷の王となっているのだ。だから人の上に立ちたいと望むならば、必ず言葉は謙虚にへりくだり、人の先に立とうと思うのなら、必ず自分のことを後にすべきである。

こうして「道」と一体である聖人は、人々の上に立っても、人々はそれを重いとは感ぜず、前面に立っても、じゃまだとは思わない。

それゆえ、天下の人々は、聖人を推すことを楽しんでやるし、嫌がらない。そもそも誰とも争わないから、天下の人々も敵対することなどありえないのである。

067 本当に立派な人間は愚か者に見える

天下の人々は皆、私のいう「道」を、大きいけれども、愚か者の在り方のように見えるという。そもそも大きいからこそ愚か者に見えるのだ。もし賢く見えているようだったら、とっくの昔にちっぽけな人物になっていたに違いない。

私には三つの宝があって、それをしっかりと保持している。第一は慈愛、第二は節倹、第三は天下の人々の先に立とうとしない、ということである。慈愛があるから勇敢であるし、節倹であるから広く施すことができるし、天下の人々の先に立とうとしないから人材の長になる。今、慈愛を捨てて勇敢であろうとし、節倹を捨てて広く施そうとし、人々の後になることを捨てて先に立とうとすれば、死があるのみだ。

そもそも慈愛があるから(人々は信頼し、ついていくから)戦えば勝ち、慈愛を持っているから守っていても(人々は協力し)守りは固い。天もそれを助けようとし、やはり慈愛を持って守ってくれるのだ。

068 不争の徳

「道」を身につけた立派な人は、武に頼らない(猛々しくない)(たけだけ)。

本当にうまく戦う人というのは、決して怒らない。

うまく敵に勝つ人というのは、敵と正面から争うことをしない。うまく人を用いる人というのは、相手にへりくだっているものだ。こういうのを「不争の徳」といい、また「人の力を利用する」という。そしてこれを「天と合致する在り方」という。昔からの法則である。

069 戦いを悲しむほうが勝つ

戦争をするときにおいて次のような言葉がある。「こちらから攻撃するより、迎え撃つような形を取り、こちらは少しも進もうとはせず、むしろ一尺でも退くのがよい」と。

これを、行こうにも行く「道」がなく、腕まくりできないのに腕を上げ、ひきずり込もうとしても敵はなく、取ろうとしても武器はなし、といういのである。

禍いが生ずることについては、敵を悔ることより大きなことはない。敵を悔れば、私の宝(三宝)をほとんど失うことになるだろう。だから兵を挙げてお互いが戦争するときは、戦いを悲しむ(三宝が有る)ほうが勝つのである。

070 粗末な服を着ていても、心のなかには宝を抱いていたい

私の言っていることは、とてもわかりやすくて行いやすいのに、天下の人はそれがわからず、行う者はなかなかいない。

私の言葉には、根本的な原理があり、行うことには要点がある。そもそも人はそれを理解しないから、私のことがわからないのだ。私のことを知る人がまれだから、それだけ私は貴い存在なのである。こうして「道」と一体となっている聖人というのは、粗末な服を着ていても、心の中には宝を抱いているのだ。


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