【古代中国】老子の言葉【思想】其の十一

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051~055まで記録していきます。生活の知恵、座右の銘、哲学としてご参考ください。

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051 「道」と徳の偉大なはたらき

「道」が万物を生み出し、徳がそれらを養い、ものになったものが、それぞれに形を与え、「道」の自然の勢いが万物を完成させていく。

そういう意味で、万物はすべて「道」を尊び、徳を貴ぶのである。

「道」が尊ばれ徳が貴ばれるのは、誰かに命じられてそうなのではなく、常に自ずからそうなのである。

こうして「道」は万物を生み出し、徳はそれらを養い、それらを生育させ、またそれらを安定させ、充実させ、それらを養い保護していくのである。

ものを生み出しても、それを自分のものとせず、恩恵を施しても見返りは求めず、長となっても支配し、偉ぶったりしない。

以上が玄徳というものである。

052 欲望に従って事をなしていけば一生救われない

天下の万物には、それを生み出した根源たるはじめがあり、それが天下の母である。

その母、つまり「道」を把握したなら、その子たる「万物」のこともわかる。

その子供をわかり、その母を守っていくならば、死ぬまで危険なことはなくなる。

目や耳や鼻や口などの穴をふさいで、欲望の元となる外的情報の入り口を閉じたなら一生、救われないこととなる。

小さなものまで見ることができるのを明といい、柔弱な態度を守っていくことを強という。

その光を用いて、明の状態に立ち戻れば、我が身に災いが起こることなどない。

これを習常というのである。

053 多すぎる蓄財、ぜいたくすぎる暮らしは「道」にはずれている

もし私にしっかりとした知恵があるならば、大きな道を歩くときに、わき道にそれることを恐れる。

大きな道はとても平坦なのに、人々は近道たる小道を行きたがる。

宮延はとてもきれいに掃き清められているのに、畑はとても荒れていて、米倉はすっかり空っぽなのに、それでもきらびやかな服を着て、立派な剣を腰に差し、たらふく飲食した、あり余る財貨を持っている輩がいる。

これを盗人の親玉という。

「道」からはずれている生き方である。

054 「道」を修めるとその功徳は計り知れない

しっかりと建てられたもの(「道」)は、引き抜かれることがなく、しっかりと抱かれたもの(道)は、抜け落ちることはない。

そのようにして「道」を守っていけば、子孫は代々と絶えず、先祖の祭祀(さいし)も続くことだろう。

そうしたやり方で個人の身を修めると、その徳は本物となる。

このやり方で家を修めていくと、その徳は余りあるほどとなる。

このやり方で郷里を修めていくと、その徳は長く続くものとなる。

このやり方で国を修めていくと、その徳は豊かなものとなる。

このやり方で天下を修めていくと、その徳は広くゆきわたることになる。

だから、個人の修め方でその個人を観察し、家での修め方でその家を観察し、郷里での修め方でその郷里を観察し、国での修め方でその国を観察し、天下の修め方でその天下を観察するのである。

私はどのようにして天下のことがわかるのだろうか。

それは以上の方法によってである。

055 赤ちゃんのように柔軟であれば「道」に近くなる

内に徳をたくさん秘めた人は、ちょうど赤ちゃんのようなものである。

赤ちゃんは、蜂やさそりや蝮(まむし)などのたぐいも噛みつかず、猛禽(もうきん)も飛びかからない。

骨も弱く、筋肉も柔らかいのに、握りこぶしは固い。

男女の交合など知らないのに、性器が立つのは、精気が十分だからである。

一日中泣き叫んでも声がかれないのは、調和がよくなされているからである。

調和をわきまえていることを常といい、その常をわきまえていることを明(明智)という。

無理に寿命を伸ばそうと執着するのを祥(不吉)といい、心で無理に気力を煽ること強(無理強い)という。

物事は勢いが盛んになれば、必ず衰えに向かうことになる。

これを不道という。

不道は早く衰える(だめになる)。


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