001~005まで記録していきます。生活の知恵、座右の銘、哲学としてご参考ください。
001 本当の道は固定したものではない
これが本当の道であると人に示す道というのは、絶対不変の固定した名(不変の名)ではない。
天地が生成され始めるとき名はまだない。そして万物が現れ、名があるようになる。それが万物の母である。
だから、人はいつも無欲であれば、その道の微妙な奥深い様子がわかり、いつも欲でいっぱいだと、ただ万物の活動する結果だけが見えるにすぎない。
この二つのもの(有と無)は、もともと同じであるが、名がある世界では違った名で呼ばれている。
そのもともと同じ根源のところを玄(奥深い微妙なはたらき)と名づけ、さらに深淵の深淵のところを「衆妙の門」(あらゆる微妙なものの資源)という。
002 世俗の価値にとらわれてはいけない(価値は相対的なもの)
世の中の人は、皆、美は常に美であると考えているようだ。しかし、美は同時に醜いものでもある。皆、善いものは善いと思っているが、善は同時に悪でもある。
有ると無いとはそれぞれが相手があってこそ生まれており、難しいと易しいも相手があってこそ成り立ち。
長いと短いとも、相手があることによってこそはっきりとわかり、高いと低いとも、相手があってこそわかり、楽器の音と人の肉声とは、相手があることで調和し、前と後ろとは、相手があることで決まる。
だから、「道」と一体となっている聖人は、無為の立場に身を置き、言葉によらないで(世俗の価値観にとらわれないで)教訓を実践するのである。
万物を自生にまかせて手を加えることをせず、それを自分のものとはせず、
大きな仕事を成しても見返りを求めず、成功するもそれに安住することをしない。
そもそも安住しないから、その功績はなくならないのだ。
003 政治は人々に干渉しないのがいい
人の賢明は相対的なものであって一つに決めつけることはできない。
それなのに為政者の都合で賢を決めつけてしまいがちだが、ある一方の面での賢を重視しなければ、人々は争わなくなる。
同じく手に入れにくい財宝などの品も、それを貴ばなければ、人々は盗みなどしなくなる。
欲望を見せなくすれば、人々は心を乱すことはなくなる。
こうして「道」と一体となっている聖人が政治を行うときは、人々の心をつまらないと考え、知識で満たされないように空っぽにさせ、お腹いっぱいに食べさせ、人々の志がつまらない欲にとらわれないように弱め、身体を健康で強くさせるのである。
いつも人々がつまらない欲と知識をもたせない状態にさせ、いわゆる知者たちが人々をたぶらかさないようにするのである。
このように、無為の政治をしていれば、うまく治まっていくのだ。
004 和光同塵(わこうどうじん)
道は空っぽのようであるが、そのはたらきは限りなく、たとえ満たそうとしても満たせるものではない。
それは深遠で底知れず、万物の根源のようである。
それはすべての光を和らげ、すべての塵と一つになる。
満々とたたえた水のように静かで、何か存在しているようだ。
私は、それが誰の子なのかを知らないが、万物を生み出した天帝の祖先のようである。
005 無心のすすめ(空っぽの心を守る)
天地には、仁など(人の考え出したも徳)はない。
万物をわらでつくった犬のように扱うのである。
また聖人も仁などの徳はない。やはり人々をわらの犬のように扱い用が済めばそれを放任している。
天地の間のこの世界は、いわば風を送り出す吹子(ふいご)のようなものであろうか。
空っぽだが、その中から万物は尽き果てることなく生まれ、動けば動くほどますます生まれてくる。
言葉が多いと、しばしば行きづまる。だまって空っぽの心を守っていくに限る。
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